時間よ止まれ
─山下清
Seibun Satow
「ぼぼぼくは、お、おにぎりが好きなんだな」。
山下清『裸の大将放浪記』
“That’s a wonderful choice”.
Sam Dawson “I Am Sam”
“Who’s on First?”
Raymond Babbitt “Rain Man”
「これでいいのだ」。
バカボンのパパ『天才バカボン』
二〇〇五年六月一三日
名は体を表わすと言うので一九二二年三月一〇日大橋清治・ふじ夫妻の長男として山下清は東京市浅草区田中町(現東京都台東区日本堤)に生まれたので本籍は新潟県佐渡郡新穂村大字正明寺七一〇番地であるので兄弟には六歳年下で二〇〇三年四月一日に死去した弟辰造がいるので翌年の関東大震災で家が全焼したので新潟市白山に転居したので三歳の時には重い消火不良を起こしたので三箇月間高熱に魘されて歩けなくなる程の重症だったので治ってから吃音等の軽い言語障害が発症し始めたので一九二六年父母と共に浅草に引っ越したので一九二八年浅草の石浜小学校に入学したので字を書くよりも絵を描くのが好きになったので一九三二年父が病気で亡くなったので知能検査をしたので知能指数が六八程度だったので知的発育に関して何らかの障害があると認められてきたので周囲の子供達から馬鹿にされたり虐められたりするので山下清は取り合わないで虫取りや家で絵を描いていたので迫害がエスカレートしてきたので腹が立ってきたので暴力沙汰を起こすようになったので刃物を持ち出し軽い傷害事件を起こしたので鼻つまみ者になったので一九三四年母と共に杉並区和田掘の社会福祉施設の母子ホーム隣保館に移ったのでその近所の小学校に転校したので学校でもホームでも嘲笑されたので刃傷沙汰に及んでしまったので千葉県東葛飾郡八幡町にあった知的障害者の養護施設八幡学園に入れることにしたので入園の五月一九日に母が別れの赤飯を作ってくれたのでお祝いだと思ったので皆はどう思ったかな
Mother, you had me, I never had
you
I wanted you but you didn't
want me
So I got to tell you
Goodbye, Goodbye
(John Lennon “Mother”)
二〇〇五年六月一四日
八幡学園では鋏等刃物が禁止なので千切り紙細工を療法として試みていたので山下清も始めなければならなかったので『クリスマス』や『掃除』等を作ってみたので始めた頃は他の子供よりも抜きんでて上手いわけではなかったので習うより慣れろと言うので一年も経つと最も優れた作品を生み出せるようになったので学園の生活を題材にしたり『お化け』・『花火』・『遠足』・『虫の集まり』等の傑作を完成させたりしたのでヴィンセント・ヴァン・ゴッホ研究家でもあった嘱託精神科医の式場隆三郎博士が山下清の貼絵の才能に驚嘆したので早稲田大学心理学教室の戸川行男教授が一九三七年に論文に添えて山下清の貼絵を学会に紹介して好評だったので三八年一一月に大隈講堂において最初の展示会が話題になったので三九年一月大阪の朝日記念会館ホールで展覧会が開催されたので日本各地で特異児童作品展も評判を呼んだので朝鮮半島・中国大陸でも巡回展示されたので年末には銀座で山下清の作品を収めた青樹社展が開かれたので山下清の作品は熊谷守一・安井曽太郎・里見勝蔵・北川民次・会津八一等を賛嘆させたので一一月に春鳥会から『得意児童作品集』が刊行されたので版を重ねたのでさらに有名になったので柳宗悦は山下清の絵について人間の本有の性が無心に流露したもので「非個人性が作品の基礎」なので「そのまま無類に美しいのであるから、画家達にとってはまさに一公案だ」と言っているので小林秀雄が否定的見解を論述しているので戦後になって柳宗悦は山下清の作品は「明治、大正、昭和にかけて日本で生れた絵画のうち、第一列に加わるものだ」と語るので小林秀雄を批判したのでパリ時代のヴィンセント・ヴァン・ゴッホの作風に似ていると思われたので「日本のゴッホ」と呼ばれたので一九五六年の東京大丸での「山下清展」を始め全国巡回展が約一三〇回開かれたので観客は五〇〇万人を超えたので芸は身を助くと言うのは本当なんだな
都の西北 早稲田の隣 
のさばる校舎は われらが母校 
バカ田 バカ田 バカ田 バカ田 
バカ田 バカ田 バカ田
(赤塚不二夫『バカ田大学校歌』)
アメリカの精神科医D・A・サリヴァンは著書『サバン症候群』の中で知的障害の中に驚異的な記憶力や能力を示す白痴の天才を意味する「イディオ・サヴァン(Idiot Savant)」がいることを例証しているので知能指数において知的障害児と判定されるレベルであるので絵画や記憶等のある特定の事柄で驚異的な能力を発揮するので情緒障害や自閉的傾向が見られる人が多いので胎児期に左脳の微細障害とそれを補うための右脳のアンバランスな発達が原因との説もあるのでサリヴァンが山下清の名もその中に挙げているので日本のみならず欧米でもイディオ・サヴァンの代表として知られているので山下清はとっても重要です
二〇〇五年六月一五日
スペシャルオリンピックスをご存知ですか?
みなさまスペシャルオリンピックス(SO)をご存知ですか?残念ながら、日本ではまだ「スペシャルオリンピックス」という言葉さえ一部の人にしか知られてはいません。しかし世界では、約150ケ国で100万人のアスリートと75万人のボランティアが参加する国際的な組織です。
 私は今まで4回世界大会に参加いたしましたが、いつも圧倒されるのはアスリートの熱気と大会を支えるボランティアのエネルギー、そして行動力です。最近日本でもボランティアが盛んになってきましたが、まだまだ道遠しという感じです。しかし21世紀は必ず日本もボランティア社会になると確信していますので、私達は時代の先駆者たる誇りを持って、SO活動を広めていきたいと思っております。 
アスリート達が変える
 私たちは、SOの日常のスポーツ・トレーニング・プログラムに参加する知的発達障害のある人たちを「アスリート」と呼んでいます。アスリートと共に活動するボランティアは皆口をそろえて言います。「彼らに教えることより教えられることのほうが多い」と。
 アスリートは素直で純真です。自分の可能性にどこまでも挑戦する勇気とひたむきに努力する姿に誰もが感動を覚えます。アスリートとボランティアは達成する喜びを分かち合い、共に苦しみ、共に生きる喜び知ることができます。関わった全ての人が新しい自分を発見し、価値観が変わっていきます。SOの活動を始めたらやめられないと経験者は言います。それはアスリートと一緒にいると楽しいからです。
 ところが、日本の社会では誤った認識により知的発達障害のある人たちは、排除され抑圧されてきました.現在少しずつ社会が変化し、彼らも社会の一員として認められるようになってきていますが、まだまだ不十分です。彼らが特定の狭い社会で生きるのではなく、もっともっと地域社会で普通の暮らしが出来るように目に見えないバリアを取り払い、彼らの真の自立を支え社会参加を目指すのが、私達のSOの活動です。
 ですから私たちは行政主導の福祉のみではなく、ボランティア活動として開かれた地域社会の中でこのSOを広げていきたいと思います。民間主導のボランティア革命、アスリートたちが社会を変える世直し運動です。ぜひともお力を貸してください。
 多様な価値観が存在し、多様な選択が出来るのが21世紀です。生命の尊さ、人間の幸せ、そんな本当の福祉の姿を問うこのボランティア活動の素晴らしさをご理解いただきご協力を賜りますように心からお願い申し上げます。
特定非営利法人スペシャルオリンピックス日本理事長細川佳代子
(http://www.specialolympics-nippon.gr.jp/first/director.html)
二〇〇五年六月一六日
                    山
 下
 清
山           山           山
下           下           下
清           清           清
山           山           山
下清山下清山下清山下清山下清山下清山下清山下清山下
山下清山下清山下清山下清山下清山下清山下清
清山
山 下
下  清
                    清
                    山
                    下
                    清
                    山
                    下
          山                 山
          下             下清山下清山下
          清               清
           山             山下清山下清山
             下               下
              清           清山下清山下清
                 山        山下清山下清山
                下         下     下
清          清山下清山下清
              山           山     山
下            下清山下清山下
清             清     清
山              山     山
二〇〇五年六月一七日
山下清は八幡学園に依然として馴染めなかったので少年老い易く学成り難しと言うので絵画制作に没頭したので紙をうまくちぎって貼れるようになってからはそれがとても好きになったのでちぎり絵を独自の技法による貼絵に発展させていったので山下清にとって貼絵はただ紙によって描くものであるので感性の象徴ではないので一般の画家なら自分の作品に何かしらの美学的注釈をつけるので山下清は視覚的効果として作品制作を行っているので日本のいかなる芸術運動とも無縁でほとんど誰にも影響を与えていないので山下清の貼絵や絵画はヘタウマと呼ばれるイラストレーションの流行以降に登場したイラストレーターにその影が見えるので現代においては誰でも一五分間は有名人になれると言うので山下清の評判もマスメディアの発達に負っているので一九世紀に突入して出版事業が繁栄したのでイラストレーターの需要が高まったので同じ頃に写真の印刷業界への進出も激しくなったので一九世紀半ばからは雑誌・新聞等ジャーナリズムが隆盛したので挿絵だけでなく広告や社会の諷刺画・漫画がしてきたのでイラストレーションの活躍の場も拡大したので画家とは違った印刷を前提としたイラストレーターが確立されたので複製技術時代の芸術家であるので二〇世紀はマスメディアが隆盛を迎えたので彼等の作品は大衆の間に浸透したので著名なイラストレーターが多数生まれたのでロイ・リキテンスタイン等のポップ・アートの芸術家はこのイラストレーションを援用したのでイラストレーションはファイン・アートと区別が曖昧になっているので近代的遠近法に欠ける山下清を印象主義と新印象主義の系譜上に置く事も出来るのでキャンバスに純色の絵具で小さな点を配置する絵画技法である点描主義(Pointillism)と比較出来るのでジョルジュ・ピエール・スーラ(Georges Pierre Seurat)とポール・シニャック(Paul Signac)は印象主義の軟弱で不規則な筆のタッチを嫌っていたので無地の背景に純色の小さな点を敷き詰めるように厳格な形態を作り出す技法を考案したので画家が静物という主題自体を重視することは稀なので構図の取り方で新たな秩序を模索できるので細密描写や質感の描出の優れた腕を見せられるので点描主義も静物を描写しているのでスーラは絵画理論の多くを同時代の光学から援用したので制作時間を細かく固定して技術を系統立てたので現代のブラウン管の科学を先取っていたので新たな視覚的効果を狙ったので総天然色の山下清の絵には明るい色彩感覚があるので光を意識していたので油絵を描くようになるとパレットを使う事が出来なかったので絵の具をチューブから直接筆に付けて描いていたのでシャルル・ボードレールは身体を緑色に塗り頭を剃ってレストランに入ったので蜥蜴を飼っていたので店のショーウィンドウのガラスに物を投げつけたので「目を覚ましたら、陰鬱で、悲しく、だるくて、何か発散したい衝動に駆られたのだ。粉々になったガラスを見て僕は叫ぶ。『生活を美しく!生活を美しく!』」と書いているので「戦争に反対する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである」と吉田健一が『作法無作法』で言ってるので山下清は点描主義と言うよりも「面描主義(Surfacillism)」なのでやっぱり違います違います違います違います
二〇〇五年六月一八日
I see a red door and I want it
painted black
No colors anymore I want them
to turn black
I see the girls walk by dressed
in their summer clothes
I have to turn my head until my
darkness goes
I see a line of cars and
they’re all painted black
With flowers and my love both
never to come back
I see people turn their heads
and quickly look away
Like a new born baby it just
happens ev’ry day
I look inside myself and see my
heart is black
I see my red door and it has
been painted black
Maybe then I’ll fade away and
not have to face the facts
It’s not easy facin’ up when your whole world is black
No more will my green sea go
turn a deeper blue
I could not foresee this thing
happening to you
If I look hard enough into the settin’ sun
My love will laugh with me
before the mornin’ comes
I see a red door and I want it
painted black
No colors anymore I want them
to turn black
I see the girls walk by dressed
in their summer clothes
I have to turn my head until my
darkness goes
Hmm, hmm, hmm,...
I wanna
see it painted, painted black
Black as night, black as coal
I wanna
see the sun blotted out from the sky
I wanna
see it painted, painted, painted, painted black
Yeah!
(The Rolling Stones “Paint It Black”)
二〇〇五年六月一九日
僕は八幡学園に六年半も居るので学園があきてほかの仕事をやらうと思ってここから逃げていかうかと思っているのでへたに逃げると学園の先生につかまってしまふので上手に逃げようと思って居ました
一九四〇年山下清は『花』の連作や戦争画『空中戦』等を発表したので学園生活も飽きたので一一月一九日風呂敷包み一つを手に学園から脱走したのでこの時は一九四三年五月まで千葉県各地を放浪していたので馬橋の魚屋や我孫子の弁当屋に勤めたので弁当屋の主人の愛人のお手伝いさんもしたので短期間で首になるか逃げ出したので自由でいたかったので徴兵検査で甲種合格になって兵隊にされるのがおっかなかったので以後第二次世界大戦後の一九五四年末まで何回も放浪を繰り返したので転がる石に苔は付かないとは本当だな
もうじき兵隊検査があるのでもし甲種合格だったら兵隊へ行ってさんざんなぐられ戦地へ行ってこわい思いをしたり敵のたまに当たって死ぬのが一番おっかないと思っていました
一九四三年春徴兵年齢の二〇歳を過ぎて二一歳になったので山下清は徴兵検査を免れたと思ったので新宿に住んでいた母の家を訪れたので母は山下清を無理やり徴兵検査場に連れて行ったので丁種不合格になったので徴兵免除となったので一〇月に八幡学園に連れ戻されたので一二月に再び逃走したので一九四六年六月まで千葉県各地を転々と放浪しているので馬橋の魚屋を振り出しに我孫子の弁当屋とその愛人宅の間を行ったり来たりしたので一九四四年一二月から我孫子の郵便局の下男になったのでやっぱり飽きたので時々母の家に寄っていたのでおっかなかった戦争がようやく終わったので一九四六年三月に職業安定所の紹介により進駐軍の職に就いたので一日でお払い箱になったので四月に当時流行していた発疹チフスかかったので母親の元に戻ったので強制入院させられてすぐに治ったので六月には千葉県を離れる大放浪に出て行ったのでニーチェはこう書いているのでえらいな
 わたしはひとりのさすらい人であり、ひとりの登山者である、と彼は自分の心に向かっていった。わたしは平地を愛さない。また、わたしは長いあいだじっと座っていることができないらしい。
 かくて、今後なお何がわたしの運命として、また体験として、やって来ようとも、──そのなかには、さすらいと登山とがあるだろう。ひとは結局のところはもう自分自身を体験するにすぎないのだから。
(フリードリヒ・ニーチェ『ツァラトゥストゥラはかく語りき』)
二〇〇五年六月二〇日
大山鳴動して鼠一匹と言うのは本当だな山下清は徴兵検査で不合格になったのでロバート・ゼンキス監督の『フォレスト・ガンプ 一期一会』では知的障害者のフォレスト・ガンプがベトナム戦争に出征しているのでアメリカ人だったら山下清も兵隊になってたかな
Jenny Curran: Have you ever
been with a girl, Forrest? 
Bubba: My given name is
Benjamin Buford Blue, but people call me Bubba. Just like one of them ol’ redneck boys. Can you believe that? 
Lieutenant Dan: Have you found
Jesus yet, Gump? 
Lieutenant Dan: Well, I thought
I’d try out my sea legs. 
Mrs. Gump: Don’t you be afraid,
sweetheart. Death is just a part of life, something we’re all destined to do. 
Mrs. Gump: I happen to believe
you make your own destiny. You have to do the best with what God gave you. 
Mrs. Gump: You’re gonna have to figure that out for yourself. Life is a box
of chocolates, Forrest. You never know what you’re gonna
get.
二〇〇五年六月二一日
一九四六年六月以来全国地各地を放浪し職を転々としたので母の家に立ち寄ったり病院に強制入院させられたり拘置所に入れられたりしているので八幡学園に自ら戻ったり連れ戻されたりしたので戦争中の放浪では作品制作をしなかったので戦後になると数々の絵画や日記を表わしたので音連れ束所の風景を絵や貼絵にし特に花火を見るのが大好きだったので花火の作品をよく作成したので八幡学園の関係者は山下清の放浪を抑えようと努力しても無駄に終わったので一九五三年頃国内外のジャーナリズムから山下清の作品に脚光が当てられていたのでその名声のお蔭で色紙やスケッチにちょっとした絵を描くだけで宿賃・食費になったので放浪を続けられたので一九五四年の年末に辿り着いた鹿児島を最後に放浪に別れを告げたので放浪を止めた理由は本人にも分からないので内的は変化だけでなく五五年体制が確立される時期だったので地方から都市への人口流出が増加し東京の国鉄の駅に押し屋が登場し電気冷蔵庫・電気洗濯機・テレビが三種の神器と主婦の間で見なされたので放浪が許されなくなってきた社会の変化に反応したので社会が不自由なら放浪に意味も無いので山下清は神仏をまったく信じていなかったので戦争を除けば将来に対する不安もなかったので今日は今日の風が吹き明日は明日の風が吹くと言うので山下清は暑くなると北に向かい寒くなると南へ向かうので身体は丈夫なので冬でもランニング・シャツ一枚で風邪一つひかないのでジャン・ジュネとは違って決して盗みだけはしなかったので煙草が好きで煙草銭が欲しかったし御飯を茶碗三杯食べたかったので乞食は三日もやれば止められないというので山下清はルンペン生活を続けているので卑しくとも価値あることなら立派にやるだけの価値があると言うので普段はあまり喋らないのに物乞いをする時は嘘や誇張を交えて雄弁だったのでヨーロッパ旅行に出かける時も「一番見たいのはヨーロッパのルンペンです」と言っているので自由でいたかったので何もしないでぼんやりとしてる時間が大切なので有名になっても彷徨い続けたので三六計逃げるにしかずと言うので徳川夢声との対談『問答有用』の言い方をすると山下清は兵隊の位で言うとゲリラなんだな
 しかし、ちょっと言わせてもらえば、ふらふらするというのも、案外と気骨の折れることだ。道を決めてないのだから、たえず道を選びながら進むようなものだ。迷って妙な方向に進まぬために、いつでも方向感覚を失わぬようにせねばならない。おかしな方向に進んだら、すぐに修正せねばならない。いったん進みかけたのを中止して引きかえすのは、かなりのエネルギーがいる。
 それでも、白紙の未来に立ち向かう実存的存在、なんて気分もまた、ふらふらの心意気の深層になくもない。ふらふらしているのも、たよりゲなばかりでなく、そこに感覚をとぎすましてもいるのだ、と言っておこう。
(森毅『ふらふら』)
二〇〇五年六月二二日
にゅうしょしせつは きげんが ない。
だから こわい。
知的しょうがい者と 言われたくない。
普通に みんなと同じ、平等に みられたい。
私のなかにも さべつは ある。
それにまけないで なんでも 思ったことは
言ったほうが いいと思う。
「施設をでて、暮らしたい時がきたら そうさせてあげる」
そう 約束しました。
おとうさん、おかあさんが、この約束を わすれたとしても
僕は、この約束を 一日だって わすれていません。
僕は、でるために 努力しています。
しゅうしょくに しっぱいして ロッカーに いれられた。
十三年間 おしぼり屋さんで はたらいてきた。
でも どんなに がんばっても
さいてい賃金から あがったことがない。
障害者は 給料が やすくてもいい
という かんがえかたは おかしい。
あたらしくはいった おばさんに しごとを おしえて いるのに。
いい人がいれば 結婚したい。
タイプは 車をもっていて
ちょっと わるめが 好きです。
けっこんについて ゆめも ふあんも ある。
でも「あんたは むりよ」って いわれると かなしくなる。
じぶんでも なやんでいるのに。
かってに きめつけないでよ。
二〇〇五年六月二三日
いじめられるのは お前のせきにんと いわれた
せいかつのことは おしえて もらえなかった。
だんたいで することばかり おしえられた。
だから グループホームにいったときに こまった。
同じことを するのにも、
一人ができるから、あなたもできるでしょ
という考え方は ちがうとおもいます。
母とふたりで 旅をするのが 好き。
その話をしたら
職員みんなが 「幸せと 思いなさい」という。
どう 思おうが 勝手でしょ。
そんあ いいかた やめてほしい。
しせつの生活が いやのなることが ある。
外出を もっと じゆうにしたい。
いつかは、社会にでて はたらきたいという
つよい希望が あります
親が年をとり、私はどのように 生きていったらいいか 考える。
友達や 地域の人と なかよくしていこうと思う。
先生に すごく反対されたけど、産みました。
子育ては 大変だけど、来年 保育園に いれようと思う。
涙の数だけ しあわせがくるって 本当かな
あたし 涙が でるけど
しあわせは まだきてないよ
涙の数だけ しあわせがきたら
どうしようか 迷うよな
(全日本手をつなぐ育成会『私たちにも言わせて もっと2──元気のでる本』)
二〇〇五年六月二四日
近代日本における知的障害者福祉は民間から生まれたので一八九一年に立教女学院(現立教女学院)教頭の石井亮一が少女の孤児を対象とした保護施設の聖三一孤女学院を創立したので同年の一〇月二八日に起きた濃尾大地震の際に多数発生した少女の孤児が売春目的に取引されている実状を耳にしたので現地に赴き二一名の少女孤児を引き取り保護しその内二名に知的障害があることを発見したので知的障害について研究するので二回渡米し知的障害研究の先駆者であるエドワード・セガンの未亡人に師事したので帰国後聖三一孤女学院を滝乃川学園と改称し知的障害者の保護・教育・自立のための総合的な施設に改変したので亮一は夫人筆子と共に知的障害者福祉事業に尽力し日本精神薄弱児愛護協会を設立したのでその活動が広く啓蒙されたので全国に各種の知的障害者施設が設立されたので八幡学園もその一つなので戦前は政財界や皇室の援助と理解ある支援者に支えられ公的支援はほとんど無いので法人格を習得できてもあくまで福祉的と言うよりも慈善的だったので知的障害者は哀れな人達あるいは厄介者と見なされていたので慈善と違い福祉は資本主義体制における消費者への改変なので彼等に購買力を持った消費者とさせなければならないので戦後になると政府による知的障害者福祉への取り組みが始まったので現在は国内に三六〇〇を程度の施設が運営されたので紆余曲折を経て各種の法律が整備され行政サービスも始まったので児童福祉法・母子保健法・学校教育法・知的障害者福祉法による福祉対策が取られ障害児及び障害者の援護機関として福祉事務所・児童相談所・保健所等の機関にいる障害福祉相談員や福祉司の他民生委員や児童委員等が関係機関と連携して対応しているので雇用対策法・職業安定法・障害者雇用促進法・職業訓練法等による雇用対策が計られているので職業訓練校での職業訓練並びに技能習得資金や自動車購入資金の貸付及び身元保証制度等の支援が試みられているので経済的援護は福祉手当・特別児童扶養手当・障害福祉年金の他所得税を筆頭に各種納税の障害者控除並びに公営住宅の当選率の優遇や交通機関の運賃の割引及びNHK放送受信料や水道料金等の減免といった様々な福祉措置が考慮されているので一九七五年の国連総会において「障害者」とは「先天的か否かにかかわらず、身体的または精神的能力の不全のために、通常の個人生活または社会生活に必要なことを確保することが、自分自身ではその全部または部分的にできない人を意味する」と『障害者の権利宣言』に規定されたので日本でもこの定義に影響を受け心身障害者対策基本法(一九七〇)にしるされた「心身障害者」を指していたので一九九三年にこの法律がようやく改正されて新たに障害者基本法として制定されたので障害者は「身体障害、知的障害又は精神障害があるため、長期にわたり日常生活又は社会生活に相当な制限を受ける者」と再定義されたので障害を身体障害・知的障害・精神障害と従来の分類から拡大したので障害を類別する限定的な規定しているので知的障害は個別的に考慮するべき要件が多く読書障害を代表に学習障害等の他の障害との兼ね合いもあるので長年に亘る障害者自身や障害者団体に支援グループ等の啓蒙活動並びに「国際障害者年」(一九八一)及び「国連障害者
二〇〇五年六月二五日
の一〇年」(一九八三─九二)といった国際的なキャンペーンにより世の中の認識も部分的には好転しつつあるので他の障害者同様知的障害があると認定されると療育手帳が交付され各種料金の免除等の特典が与えられ障害年金や特別障害者手当等の制度もあるので成人後以降の事故や病気の後遺症並びに老人性の症状を通常は知的障害に含めないので知的障害をめぐる用語・訳語も錯綜してきた歴史があり砂金ではチャレンジドとも呼ぶのでWHOは精神遅滞(Mental Retardation)をIQ値によって四段階に分類しているので軽度はIQ五〇〜七〇で中等度はIQ三五〜五〇で重度はIQ二〇〜三五で最重度はIQ二〇以下なので全体の約七五%は遅滞と健常の中間なので就学するまで判別できないことが多く小学校程度の学力は習得でき成人後もちょっとしたサポートが時と場合に応じて受けられればほぼ自力で問題解決出来るので全体の二〇%を占める中度の遅滞は小学校低学年程度の学力までは会得出来るので簡単な仕事であれば十分に可能なので五%の重度と最重度の遅滞では重度の場合は言葉を話す能力が低いのでコミュニケーションに齟齬を生じるので福祉的介護さえあれば身の回りの事は自力で出来るので最重度の場合日常生活を自力で行うことが困難であるだけでなくしばしば身体的健康も十分でないので医療的介護も必要とされるのでIQでのみ判定する事は知的障害を短絡的に見ているだけなので各個人を総合的に捉えて考慮しなければならないので日本では各種の検査結果に統計学的に基づくとIQ七〇以下の人は二・二七%存在すると推測されるので日本の知的障害者数は二八四万人になるのに現在知的障害者と公的に認定されているのは四一万人でその内八四%が療育手帳所持者であるので軽度・中度の手帳の所持者が五五%で重度・最重度が四五%であるので障害が軽度の場合様々な理由から申請されていないか気づかれていないと見られているので重度の障害者や重複障害者に対する認識は依然として戦前から変わっていないので障害者の社会からの隔離・排除を望んでいる人々も多いので野田事件や甲山事件に水戸事件といった障害者を巡る犯罪事件もそうした環境と無縁ではないので一九九三年制定の障害者基本法に基づき翌年に厚生省(現厚生労働省)に障害者保健福祉施策推進本部が設置されたので一九九五年一二月に具体的数値目標を掲げた「障害者プラン—ノーマライゼーション七か年計画」を発表したので「地域でともに生活するために」・「社会的自立を促進するために」・「バリアフリー化を促進するために」・「生活の質(QOL)の向上をめざして」・「安全な暮らしを確保するために」・「心のバリアをとりのぞくために」・「わが国にふさわしい国際協力・国際交流を」という七つの視点から政策の重点的な推進を図っているので知的障害に関する厚生労働省や文部科学省のみならず内閣府・法務省・国土交通省に各地方自治体の姿勢も問われるのでノーマライゼーションやユニヴァーザル・デザインの一般への浸透に伴い脱施設化の試みも促進されつつあるので知的障害者の存在自身が社会の文化を活性化する多様性には欠かせないので知的障害者問題は政治的・経済的のみならず文化的問題なので二一世紀には政治・経済の支配体制でなく文化の体制が到来するので備えあれば憂いなしなんだな
二〇〇五年六月二六日
自閉症で知的障害を伴う柴田伸夫さん(25)は、「ユニクロ」の東京・八雲目黒通り店で準社員として毎日働いている。 
 朝8時半に出社。夕方5時ごろまで、売り場の後ろにある倉庫のなかで、山と詰まれた段ボール箱から必要な商品を取り出す「袋むき」という作業に取り組んでいる。自給は約千円だ。
 中沢賢一店長はいう。「袋むきは集中力が必要で、この作業に関して柴田君は優秀です」「他の社員と同じように問題があれば注意している」。時々、好きな歌を歌ったり、アニメの話を口にしたりする柴田さんは、職場のアイドルだという。
企業は、従業員数の1・8%以上の障害者を雇うことが法律で義務づけられている、だが朝日新聞も含め、約6割の企業がこの基準を満たしていない。
そんななかでユニクロを全国展開するファーストリテイリング社は7・55%の雇用を達成し、最高水準をいく。
同社も実は急成長をとげた00年に法定水準を下回った。そんなとき柳井正会長は「1店に1人の障害者を」と指示した。「福祉的な立場ではなく、あくまでも戦力としてです。障害がある社員への思いやりはチームワークを向上させ、顧客サービスの向上にもつながった」と担当者はいう。
 (梶本章「ユニクロの柴田君」二〇〇四年一二月二日付『朝日新聞夕刊』)
筑後病院に、筋ジストロフィーというなんびょうとたたかっている少年たちがいます。
 その少年たちが、「ガオバンド」というバンドを作って活動しています。
 昨年の八月に、そのコンサートに行きました。
私は、初めてみんなの歌を聞いた時、胸がいっぱいになりました。
それがきっかけで、ガオバンドのおっかけになってしまいました
 コンサートの日時が決まっていたら、一ヵ月前から別の仕事を入れないようにして、早くその日がこないかと、胸がドキドキしてまっています。
今は毎日のようにCDを聞いています。そして、メンバーと文通をしたり、病院まで会いに行きます。その時は、最高にうれしくて、ワクワクな気持ちです。
みんなと会うと、私もがんばろうという気持ちになります。
これからも、「おっかけ」は続けるぞ。
(全日本手をつなぐ育成会『私たちにも言わせて もっと2──元気のでる本』)
テイク・オフ (SINGLE)
GAOHバンド
二〇〇五年六月二七日
価格: ¥1,020(税込)
CD (1995/03/29)
東芝EMI - ASIN: B000064UPU(現在廃盤)
GAOH‐BAND:福岡県筑後市の国立療養所筑後病院に入院していた進行性筋ジストロフィー患者の有吉学・後藤飛雄馬・久野憲一郎・奥田耕一郎の四人によって一九九二年一〇月結成。バンド名はオリジナル・メンバーの頭文字に由来。同年一二月の筑後病院六病棟クリスマス会でデビュー。初ライブは翌年八月の交通遺児チャリティー・コンサート。九五年には山口市で山下洋輔氏と共演し、一一月には福岡県文化功労者賞を受賞。ギター担当の久野を除くメンバー三名が二〇代前半のうちに筋ジストロフィーの進行により亡くなったため、筑後病院に入院する松本賢次郎や松尾涼等が参加し、現在は五人編成。CD三枚をリリース。ビートルズ・ナンバーといったカバー曲の他「テイク・オフ」や「Dear」等のオリジナル曲も演奏。全員がロバート・ワイアットのように車椅子でステージ上に登場し、体力的な点から一回のコンサートでの演奏曲数は通常五、六曲。通算コンサート回数一〇〇回以上。
 東京・世田谷の住宅街の一角にある知的障害者のための就労支援センター「すきっぷ」を訪ねた。
2階建ての1回はクリーニング作業室。区立の老人ホームから依頼されたシーツやタオルのクリーニングが行われていた。地下は印刷作業室。パソコンを使って封筒や名刺、チラシなどを印刷するのだと、働いていた人が説明してくれた。
98年に設立された転院40人の「すきっぷ」の特徴は、利用期間を原則として2年以下に限り、最終的には一般企業に就職するのを目標としている。
実際の作業を通じてチームワークや仕事への集中力を養う。週1回は社会人としての生活の仕方を学ぶ。協力企業には体験実習を通じて求職活動を進める。仕事が決まれば職員も一緒に会社に行って、橋渡し役を果たす。独り立ちした後もアフターケアのために定期的に訪ねて、相談にのる。
「すきっぷ」の施設長、宮武秀信さんは「ちゃんと勤めることが出来れば、最低でも月10万〜11万円稼げる。これに生涯年金を足せば月に約18万円になり、親の世話にならなくても自活できる」と話す。
障害者に対しては福祉の視点から様々な就労制度があるが、実際の雇用につながっていない。厚生労働省では、「すきっぷ」型の自立支援への転換を掲げている。
 この欄に登場したユニクロで働く柴田伸夫さんも「すきっぴ」OBだ。その活躍が新しい方向を指し示している。
(梶本章「すきっぷ」二〇〇四年一二月一一日付『朝日新聞夕刊』)
二〇〇五年六月二八日
一九四九年にほぼ五年振りに作品制作に臨み東京大空襲の際の死体に溢れる深川を描いた大作『東京の焼けたとこ』を始め『晩秋』・『木瓜』・『梅』等の小品に『学園の景色』・『のぼり藤』を完成させるだけでなく油絵も手がけるようになったので『学園付近の風景』にチャレンジしたので新たな放浪に出掛けたので翌年にかけて『トンネルのある風景』・『江ノ島』・『長岡の花火』・『八幡学園』・『神宮外苑』だけでなく数少ない自画像『自分の顔』も仕上げているので油絵については一作を一個月で貼絵は二週間程度で作成しているので一九五一年に『アマリリスとスイートピー』・『木瓜』・『菖蒲』といった植物の油絵を描いたのでその年の五月から一九五四年まで放浪したので一〇メートルしか水泳も出来ないので式場博士を含めて知人達が心配していたので『桜島』や『草津温泉』を完成した一九五四年有名になってしまったので式場博士や八幡学園の関係者は弟の辰造を山下清の大島への旅に同行させたのでバリー・レヴィンソン監督の映画『レインマン』でもトム・クルーズ扮するチャーリー・バビットがダスティン・ホフマンの演じる知的障害のある兄のレイモンド・バビットを連れ回しているので旅は道連れ世は情けと言うので仕方がありません
My grand-ma and your grand-ma
were
Sit-tin' by the fire. - My
grand-ma told
Your grand-ma: "I'm gon-na set your flag on fire."--
Talk-in' 'bout, Hey now ! Hey
now ! I-KO, I-KO, un-day
Jock-a-mo fee-no ai na-n. - Jock-a-mo fee na-n.-
Look at my king all dressed in
red.-
I-KO, I-KO, un-day. I bet-cha
five dol-lars he'll kill you dead.--
Jock-a-mo fee na-n
My flag boy and your flag boy
were
sit-tin' by the fire. - My flag
boy told
Your flag boy: "I'm gon-na set your flag on fire."
See that guy all dressed in
green ? -
I-KO, I-KO, un-day. He's not a
man;
He's a lov-in'
ma-chine.--
Jock-a mo fee na-n.--
(The Belle Stars “Iko Iko”)
二〇〇五年六月二九日
画伯と呼ばれるようになったらベレー帽を被らないといけないので山下清は子供のように健康な精神の持ち主なのでロマン主義の持つアイロニカルな倒錯意識がないので見落とされがちな風景や出来事ではなく多くの人がイメージする観光ガイドの写真や挿絵のような対象を選ぶので秋田と言えば秋田犬なので秋田に行ったら秋田犬を描くので鹿児島と言えば桜島なので鹿児島に行ったら桜島を描くので別府と言えば別府のワニ園なので別府に行ったら別府のワニ園を描くので鳴門と言えば渦潮なので鳴門に行ったら渦潮を描くので伊勢と言えば伊勢神宮なので伊勢に行ったら伊勢神宮を描くのでカイロと言えばスフィンクスにピラミッドなのでカイロに行ったらスフィンクスにピラミッドを描くのでコペンハーゲンと言えば人魚像なのでコペンハーゲンに行ったら人魚像を描くのでパリと言えばベルサイユ宮殿にゴッホと弟テオの墓にノートルダム寺院にエッフェル塔にモンマルトルにムーラン・ルージュなのでパリに行ったらベルサイユ宮殿にゴッホと弟テオの墓にノートルダム寺院にエッフェル塔にモンマルトルにムーラン・ルージュを描くので忙しいです放浪の間の出来事は山下清が書いたり語ったりしたものから窺い知る事が出来るので絵を描いたり貼絵をしたりするよりも書くのはなかなかその気にならなくて億劫なので出来るなら日記もつけたくないので一九五八年一月に文藝春秋社より刊行された『日本ぶらりぶらり』に関しては山下清が直接書いたものだけでは少なすぎるので式場博士に口述筆記をしてもらった部分も多いので改行や句読点や接続詞に漢字と仮名の割合が最初から整えられているので日記と違って山下清の文章と言うよりも幼稚さが目立っている文章で少々残念です
 あわおどりがすんでから、女中さんたちと腕ずもうをした。ぼくは太っているが力が弱く、中学生の二年ぐらいの力しかない。だから男と腕ずもうしてもみんなまけてしまう。まけるのはくやしい、いやな気がする。そこでぼくは勝ちそうな女のひとと腕ずもうをする。
 女中さんたちはみんなぼくにまけた。これは左の手でも同じことだった。ぼくは嬉しくなって、何べんも何べんもやった。もう一度というと、女たちはへとへとになっていやがった。そばにみている人たちが、たまにはまけてやるがよい、男は女をいたわるもんだと教えてくれた。しかし、もしぼくが女にまけたら、何と弱虫の男だと笑われるだろう。ぼくは笑われるのはいやだ。だから決してまけたくない。強い人とはやらない。自分の勝ちそうな人とばかりやることにしている。男は子供でないとかてない。そこで女のおとなとやるのがいちばんよい。
勝てば官軍負ければ賊軍と言うので絶対に負けることがない相手を選んで勝負を挑む子供の持つような卑怯さを持っていることが書かれているので女たちはへとへとになっていやがったと勝ち誇ってるのでその片鱗は感じられるのでもちろん捨てたものではないんだな
二〇〇五年六月三〇日
けれども困難は、ギリシアの芸術や叙事詩がある社会的な発展形態とむすびついていることを理解する点にあるのではない。困難は、それらのものがわれわれにたいしてなお芸術的なたのしみをあたえ、しかもある点では規範としての、到達できない模範としての意義をもっているということを理解する点にある。
 おとなはふたたび子供になることはできず、もしできるとすれば子供じみるくらいがおちである。しかし子供の無邪気さはかれを喜ばさないであろうか、そして自分の真実さをもう一度つくっていくために、もっと高い段階でみずからもう一度努力してはならないであろうか。子供のような性質のひとにはどんな年代においても、かれの本来の性格がその自然のままの真実さでよみがえらないだろうか? 人類がもっとも美しく花をひらいた歴史的な幼年期が、二度とかえらないひとつの段階として、なぜ永遠の魅力を発揮してはならないのだろうか? しつけの悪い子供もいれば、ませた子供もいる。古代民族の多くはこのカテゴリーにはいるのである。ギリシア人は正常な子供であった。かれらの芸術がわれわれにたいしてもつ魅力は、この芸術が生い育った未発展な社会段階と矛盾するものではない。魅力は、むしろ、こういう社会段階の結果なのである、それは、むしろ、芸術がそのもとで成立し、そのもとでだけ成立することのできた未熟な社会的諸条件が、ふたたびかえることは絶対にありえないということと、かたくむすびついていて、きりはなせないのである。
(カール・マルクス『経済学批判序説』)
三つ子の魂一〇〇までと言うのは本当だな山下清はどこまでも山下清なので正常な子供であったので勝つのは気分がいいし負けるのが屈辱的で大嫌いだったのでホーマーも時には居眠りをすると言うので古代ギリシアのホメロスが描いたアキレウスは相手のいない喧嘩はできないと言うので復讐に燃えてヘクトルと死闘を演じて勝利したので「死ぬがよい。私はゼウスと他の神々がそれを終えんと欲したとき、己の運命を受け入れようぞ」と『イリアス』第二二歌で言い放つ位怒りがまだ収まりきらないので第二四歌でヘクトルの遺体を戦車に括り付けて引き摺り回し残虐の限りを尽くしまくるので見るに見かねたギリシアの神々のアポロンやゼウスも止めに入ったのでアキレウスに遺体をヘクトルの父プリアモスに返還するよう促したのでやっとアキレウスも納得してそれに応じたので古代ギリシア人の英雄は子供のように残酷なので無理が通れば道理が引っ込むというのは本当なんだな
Atticus Finch: Thank you, Arthur.
Thank you for my children.
Arthur “Boo” Radley: ……
(Robert Mulligan “To Kill A Mockingbird”)
二〇〇五年七月一日
昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので
昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので昨日と同じだったので書くことがありません
二〇〇五年七月二日
八幡学園に入園したのでちぎり絵と同じく日記を書く事が日課とされたので山下清の絵画は視覚的言語なので日記は言語的形象なので山下清自身がメディアなので山下清の原文は改行もなく句読点もないので世の中の読者には読みにくいので式場隆三郎博士が手を加えているのでそのニュアンスがある意味で損なわれているのでそれを目にした人たちは気に入っているので過ちのない者は何も作り出せないと言うので思い違いや勘違いがあっても式場博士は直ささないのでいずれ原文のままで発表しようという意図を持っているのでゴッホの諸作品をゴッホと弟テオの合作で『資本論』をカール・マルクスとフリードリヒエンゲルスの合作であると見なしている人もいるので山下清と式場隆三郎博士と弟の辰造三人の合作と式場博士自身も考えているので山下清の日記の原本を読んだので寿岳章子は『山下清の文章その魅力』において山下清の文体の特徴をあげているのでためになります
 まず彼の実際に手がけた日記をみると、いわゆる「日記」、毎日あったことを、その日付のもとに書き記すというのとはまるで違うことがすぐわかる。第一、彼は日記なんぞ別に書きたくないもないのに、入園していた八幡学園で命令されて、飛び出して日本中あちこち歩いていた時のことを書き記しているのであるが、その思い出すことどもを書き記した日付で日記と言われているのである。ノーと見開き、横けいを縦に使い、二ページ書いたらその日の仕事はおしまい、あくる日の日付で、又前の日書いたつづきがはじまるのである。
 山下清の文体の面白さは、まず彼の文章が、二ページの最後まで切れないで続くことである。ふつうなら。で終わる文が決して。を打たない。接続助詞として「ので」……「ので」と、それこそ二ページの終わりまで「ので」で続いてゆく。一般に山下清の文章として印刷されている文も、「ので」をちょいちょい使って彼の「裸らしさ」を出しているが、原文の延々たる「ので」型文の魅力には劣る。彼の「にで」の特徴は、まったく純粋に文をつづけるためにのみ使用され、一般に使う「雨が降るようなのでかさを持ってゆこう」のように原因を示すものではない。
 そのどこまでも続く彼の文も、二ページの終わりでなくとも時に切れることがある。それにはしっかり特徴がある。即ち、「おもしろい」とか、「浅いのです」とか、「きれいです」とかのように自分の印象や判断をのべる時に切れるのである。「おもしろいので」とか「浅いので」とか、「きれいなので」とかも文作りとしては可能であろうが、そうはしないのが彼の文作りの特徴である。
「ので」は因果関係を意味する接続詞として使われていないのでただセンテンスとセンテンスを繋ぐ為だけに使われているのでどうしてもこれ以上浮かばない時には最後のセンテンスを終わりまで繰り返すので語彙が乏しく感情表現がほとんど無いのでとても単調です
二〇〇五年七月三日
一日一日が歴史の一ページであると言うので山下清は一日の日記の後に「俎」や「慈姑」など二三語ずつ難しい漢字の書き取りの練習をしているので継続は力だと言うので漢字が日記に多用されているので漢字の意味に惹かれていると言うよりも漢字は表語文字あるいは視覚的な形象と認識するので山下清は漢字の持つ視覚性に着目しているので漢字は動かず黙って見ているので富士山という漢字を書くのは富士山という文字を描く事と同じなので漢字の書き取りは動いている何かを把握する事では無く止まったものを描写する事なので漢字には豊富なヴァリエーションがあるので書いても書いてもきりがないのでシージフォスになったみたいなので知識を求めよ中国までもとアラブ人が言っているのも本当なんだな
 近年ペンシルバニア大学の心理学者たちは興味ある実験結果を得た。それは、子供らがアルファベットより漢字をはるかに楽に学びとるということである。文字に弱い子供は、語を綴り全体の「形」で学び、個々の字母の形で学ぶことは不得手だというのだ。川という字をみてたやすくリヴァーと読めるようになる子供が、riverという文字を読めないのは、教える者がそれを音声と直接に関係づけようとするからである。したがって、むしろriverという「形」を漢字のようにおぼえさせればよいということになる。
(柄谷行人『神業』)
「何日迄も有ると思ふな親と金無いと思ふなうんとさいなんといふ事が有るのでうんとさいなんは何日くるかわからないのでとうとうさいなんがきて手錠をかけられて精神病院へつれて行かれるので」と日記で書いているので山下清は日記だけでなく日常会話でも諺を多用しているので現在の経験によって過去の知恵を再構成するのではなく過去の枠組みに現在の経験を押し込む姿勢は思考方法にとどまらず彼の芸術活動の特徴であるので諺の持つ生活の知恵や一般的な妥当性には言語学的のみならず民俗学的・文化人類学的領域に属しているので口頭伝承につきものの呪文や謎の要素があるので皮肉や寓意を孕んで居るので音韻を踏むなど聴覚的であると共に針小棒大や自画自賛のように漢字による視覚的イメージを通じて訴える場合も少なくないので山下清は字義通りの印象に囚われず意味を把握しているので一石二鳥と聞いて一つの石で二羽の鳥を落とす方法はどうしたらいいんだろうと頭を悩ませる事はないけど一を聞いて十を知るのは難しい泪瞼顎塩梅袱紗贋作相撲憂鬱愕然闇夜玩具刺繍剥製破綻菖蒲向日葵桔梗女郎花公孫樹紫陽花山茶花杜若柚子亜馬孫黒漫魚呆気惚気涎髷嚔鼾固唾胡座欠伸罹病曖昧模糊成仏涅槃髑髏提灯足袋浴衣法被撫子柘榴仙人掌蝙蝠啄木鳥紐育倫敦巴里伝播炉端口腔炬燵暖簾卓袱台山車竈行者行火行灯蒟蒻縮緬葦簀杜氏玄孫間歇玄人誘拐美人局香具師赤裸々杜撰雲雀梟鶫鸚鵡檸檬番鳥信天翁鯛鮒鮎鱒鰊膃肭臍海豚鮪鯔鰤鰯鰻鯰泥鰌鮠帷子簀子簪陶冶自棄扨曾孫功徳所謂所詮歌留多囲碁法螺態々愈々曠職艶女侃々諤々喧々囂々厩戸蝋燭石鹸岐阜雲母烏丸胡椒山椒胡麻独楽披露終焉
二〇〇五年七月四日
日記は放浪中ではなく八幡学園で書くことが多いので事件はリアル・タイムで起こっていないので記憶を思い出しながら記しているので山下清はその想起の過程を文章化しているのでじいさんやばあさんが記憶を呼び戻す時にはえーとあれは何だっけという具合に間延びしながら頭の中を探すので句読点が無く繰り返しの多い長いセンテンスによって構成された山下清の日記には絵画作品と同様に内面がまったくないのでマルセル・プルーストの『失われた時を求めて』やジェームズ・ジョイスの『ユリシーズ』を思い起こさせるのでその二つの作品は二〇世紀の文学を変えただけでなくて文学にとどまらない人類の思想史の広範囲に影響を与えたので山下清の文体がえらい人に影響を与えてないのは不思議だな
Elle envoya chercher un de ces gâteaux courts et dodus appelés Petites Madeleines qui semblaent avoir été moulés dans
la valve rainurée d’une
coquille de Saint-Jacques. Et bientôt, machinalement, accablé par la morne journée et la perspective
d’un triste lendemain, je portai à
mes lèvres une cuillerée du
thé où j’avais
laissé s’amollir un morceau de madeleine. Mais à l’instant
même où la gorgée mêlée des miettes du gâteau toucha
mon palais, je tressaillis, attentif à ce
qui se passait d’extraordinaire
en moi. 
(Marcel Proust
"A la recherche
du temps perdu”)
and those handsome Moors all in
white and turbans like kings asking you to sit down in their little bit of a
shop and Ronda with the old windows of the posadas 2
glancing eyes a lattice hid for her lover to kiss the iron and the wineshops half open at night and the castanets and the
night we missed the boat at Algeciras the watchman going
about serene with his lamp and O that awful deepdown
torrent O and the sea the sea crimson sometimes like fire and the glorious
sunsets and the figtrees in the Alameda gardens yes
and all the queer little streets and the pink and blue and yellow houses and
the rosegardens and the jessamine
and geraniums and cactuses and Gibraltar as a girl where I was a Flower of the
mountain yes when I put the rose in my hair like the Andalusian
girls used or shall I wear a red yes and how he kissed me under the Moorish
wall and I thought well as well him as another and then I asked him with my
eyes to ask again yes and then he asked me would I yes to say yes my mountain
flower and first I put my arms around him yes and drew him down to me so he
could feel my breasts all perfume yes and his heart was going like mad and yes
I said yes I will Yes.
 (James Joyce “Ulysses”)
二〇〇五年七月五日
一九世紀に鉄道がイギリス全土に敷設されていったので統一された標準時刻が無いと危ないので山下清も放浪中よく鉄道を使ったり駅で寝泊りしているので八幡学園やしゅうしょく先で時間だぞとうるさく言われるのは嫌いだけども鉄道の時間がおかしかったら大変だという事はよくわかっているのでイギリスでその試みが上手く行ったので今度はグリニッジ天文台を始点とする世界統一の標準時刻が国際的に採用されたので時計に縛られるのはけしからんと怒って天文台をばくはしようと計画したテロリストも居たくらいだから時は金なりと言うのは本当だな二〇世紀にはその傾向がより強化されていったので機械的な標準時刻の支配に異議を唱えて生き生きとした時間を考えた人が多く登場したのでマルセル・プルーストやジェームズ・ジョイスを代表に生き生きとした意識の流れを小説に導入するために長いセンテンスが使用されたので山下清の文章はそうした意識の流れによる時間の顕在化では無いので全く正反対なのでリアル・タイムで動いている事件をファイル化して保存することでその動きを止めて読み取り専用にしたそのファイルを整列させる事が書く事なので単調で機械的な時間の極限化なので時間は止まっているので死んだようです
Unforgettable, that's what you
are
Unforgettable though near or
far
Like a song of love that clings
to me
How the thought of you does
things to me
Never before has someone been
more
Unforgettable in every way
And forever more, that's how
you'll stay
That's why, darling, it's
incredible
That someone so unforgettable
Thinks that I am unforgettable
too
<instrumental interlude>
Unforgettable in every way
And forever more, that's how
you'll stay
That's why, darling, it's
incredible
That someone so unforgettable
Thinks that I am unforgettable
too
(Nat King Cole “Unforgettable”)
二〇〇五年七月六日
ぼくは放浪している時絵を描くために歩き回っているのではなくきれいな景色やめずらしい物を見るのが好きで歩いている貼絵は帰ってからゆっくり思い出して描くことができた
放浪している時の山下清のリュックの中身は石鹸等の日用品だけだったので絵の道具は一切なかったので実際の放浪ではほとんど絵を描いていないので例外の無いルールは無いと言うのでお金のためや恥をかきたくない時はもちろん別なので窮すれば通ずというので即興の画家では本質的に無いので長い目で見てやって欲しいんだな旅先で見た風物を自宅や八幡学園に帰ってから絵や日記に思い出してから表わしたので数箇月間後や時には数年間の放浪生活から帰った後に行うので日記の特徴が示している通り山下清の作品制作は記憶の再現ではないので記憶は動きを止めるため時間を止めるために行われるので芸術は長く人生は短しと言うので後年は絵画制作に記憶だけでなく旅行の際に式場博士が撮影した写真も利用するようになったので時代が経ったので便利なものがお手軽になったんだな絵画も日記の記述と同じく想起による生き生きとした時間の獲得ではなく読み取り専用のファイルの整列化なのでいかに精緻であったとしても山下清の絵画には動きが失われていたり対象物に質感が欠けていたり平面的であったりするので物は考えようと言うのは本当だな
 苦痛はまたよろこびであり、呪いはまた祝福であり、夜はまた太陽なのだ、──去る者は去るがいい! そうでないものは学ぶがいい、賢者はまた愚者だということを。
 あなたがたはかつて一つのよろこびに対して「然り」と肯定したことがあるのか? おお、わが友人たちよ、もしそうだったら、あなたがたはまたすべての嘆きに対しても「然り」と言ったわけだ。万物は鎖でつなぎあわされ、糸で貫かれ、深く愛しあっているのだ。──
 あなたがたがかつて、ある一度のことを二度あれと欲したことがあるなら、「これは気にいった。幸福よ! 束の間よ! 瞬間よ!」と一度だけ言ったことがあるなら、あなたがたは一切が帰って来ることを欲したのだ!
 ──一切を、新たに、そして永遠に、万物を鎖でつながった、意図で貫かれた、深い愛情に結ばれたものとして、おお、そのようなものとして、あなた方はこの世を愛したのだ!
 ──あなたがた、永遠のものたちよ、世界を愛せよ! 永遠に、また不断に。そして、嘆きに向かっても「去れ、しかし帰って来い」と言うがいい。すべてのよろこびは──永遠を欲するからだ。
(フリードリヒ・ニーチェ『ツアラトゥストゥラはかく語りき』)
二〇〇五年七月七日
山下清の絵画では静物や風景に比べて人物の描写が精緻ではなく絵と言うよりも折れ曲がった線の配置なので聞くは一時の恥聞かぬは一生の恥と言うので山下清に直接聞くのが一番だけど死人に口なしと言うので運良く山下清自身が絵をどう描いているかを欧州旅行記の『ヨーロッパぶらりぶらり』の中で説明した事があるので一九五六年秋式場博士等と共に欧州旅行に出発して各地の名所を作品にしたのでパリで「運河と北ホテルのスケッチをはじめたら、ぼくが絵をかいているすこし前に、わかいフランスの男の人と女の人がやってきて、運河の岸壁にぴったりとならんで腰をかけたので、なにをするのかと思ったら、ふたりで肩をくんだまま、いつまでもなんにもしないでじっとしている。ぼくは人間の絵はにがてなので、なぜかというと人物は景色とちがっていつまでもじっとしていてくれないので、かきにくいのです。いまはぼくの前にいるフランスの若い男と女はいつまでも動かないので、かこうと思えばかけるので、先生にあの人物も一しょにかいてもいいかといったら、かきたかったらかけばいいというのでかこうとしたら、男と女はぼくからすこしはなれたところにいるので、どんな風に腕をくんでいるのかよくわからない」ので近くによって観察しようと思ったので式場博士に尋ねると博士に二人の邪魔をしてはいけないと諭されたので「そばへいってこまかいところまでみることができないので、この男と女がくっついている人物をかくのはやめにして、ずっと向うでつりをしている人物をかいた。つりをしている人物もちっとも動かないので、遠くでこまかいところはわからなくとも、ぼくはつりをしている人物はなんべんもかいたことがあるので、そばへよってみなくてもかくことができた」のでこの言葉は山下清の創作活動の過程を語っているので熟慮しないといけないんだな山下清は動いているものを描くのが苦手なので人物を扱いたがらないので静物画や風景画と違って人物画を得意にしていないので一度も描いたことが無いものは根気よく観察して動きを止めて記憶していくのでその記憶は読み取り専用になっているので一度も描いたことが無いものを推測して描く事は出来ないので推測は過去の経験を抽象化して別の事例に応用する事なので山下清は抽象性をあまり理解できず世界を具体性によって認識するのである時「めし」と「べんとう」とはどう違うのかと自答した挙げ句「べんとうにめしをつめれば同じだ」と結論を導き出すので抽象的な「べんとう」は弁当箱に具体化されるので抽象性の乏しさが動くものではなくて静止したものや記憶によって静止させたものを志向させているので時間を止めたいから創作活動をするので画家は普通動くものを捉えようとするので静物や風景の場合生き生きとしていなくてもその質感や雰囲気を再現しようとするので動きは動き出す瞬間もしくは止まる瞬間を描けばいいので下手な画家は描くものが中途半端に動いているので質感に欠けた動きの無い絵は画家はあまり描かないのでアンディ・ウォーホルはポップ・アートの大将なのでその作品には現代社会における死のイメージが高度消費社会の寓喩と共に織り込まれているので山下清の作品にはそういった寓意は無くただ完全に静止した世界を描いているので抽象的でなく具体的な死
二〇〇五年七月八日
を描いているので山下清は日記にしろ絵画にしろ表現すると言うよりも余白を埋める作業なので釣りというイデアではなく釣りをしている人を描くので目の前の釣りをしている人ではなく記憶して動きを止めた苗に描いた事のある釣りをする人をスケッチしているので過去の経験を元に構成するのでヨーロッパを描いてもそれはほとんど日本なのでイタリアの少女を描いても日本の童になってしまうのでオランダの木靴うりも縁日の出店になってしまうので人は見かけによらぬものと言うのでそれもいいんだな山下清は式場隆三郎博士が一九六五年に六七歳で亡くなった時当時の日本の成人男性の平均寿命と同じだったので「先生は六七で死んだんだな。ちょうどいいな」と言ったので自然に行くのがいいんだな
Labour is blossoming or dancing where
The body is not bruised to
pleasure soul.
Nor beauty born out of its own
despair,
Nor blear-eyed wisdom out of
midnight oil.
O chestnut-tree, great-rooted blossomer,
Are you the leaf, the blossom
or the bole?
O body swayed to music, O
brightening glance,
How can we know the dancer from
the dance? 
(William Butler Yeats “Among School Children”)
芸術論や美学と言えばアリストテレスの『詩学』かイマヌエル・カントの『判断力批判』かゲオルグ・ヴィルヘルム・フィリードリヒ・ヘーゲルの『美学』かと言うので「美は、概念にかかわりなく普遍的に〔すべての人に〕快いところのものである」とか「美は、合目的性が目的の表象によらずに或る対象において知覚される限りにおいて、この対象の合目的性の形式である」とか「美とは、概念を用いずに必然的適意の対象として認識されるところのものである」とか「天才は生得の心的素質であり、この素質を通じて自然は芸術に規則を与えるのである」とかカントは書いているので出る杭は打たれるというのでカントはよく批判されているので詩や音楽に比べて絵画を低い芸術と考えているので難儀だなあ
最初まず区分を立て、次にそれらを仕切りのある枠の中にきちんと押し込めることにかけては、カントは見事な手腕家である。後世の学説に及ぼした彼の影響は、彼が美的経験を他の経験様式から分離して、人間性の構造の中で科学的基礎というものをこれに付与した点にある。カントはわれわれの本性の一区分たる悟性能力が感覚的素材と結び付いて作用するところに知識を帰属させた(註名詞の大文字書きがドイツの思想に及ぼした影響に対して人はまだ正当な注意をほとんど払っていない)。彼は、通常の行為も分
二〇〇五年七月九日
別ある行為も快楽を目的とする欲望に帰属させ、道徳的行為を純粋意志(Pure Will)に基づく要求として、純粋理性(Pure Reason)の活動に帰属させた。真(True)と善(the Good)を処理した以上、残った仕事は、古典的トリオの最後の言葉である美(Beauty)に適所を与えることであった。残っているのは、純粋感情(Pure Feeling)である。孤立的で自己完成的という意味で「純粋な」、すなわち欲望に汚されない感情、厳密に言って、非−経験的な感情である。そこで、カントは思弁的でなく直観的な判断力、それも、純粋理性(Pure Reason)の対象とは関わりのない判断力(Judgment)というものを思いついた。この判断力はものを静観(Contemplation)する場合に働く。そして、顕著な美的要素を成しているのは、このような静観に伴う快感である。こうして、あらゆる欲望や、活動や、情緒の働きなどから切り離された「美(Beauty)」という象牙の塔に向かって心理学の通路が開通したのである。
(ジョン・デューイ『経験としての芸術』)
山下清はイマヌエル・カントの『判断力批判』をそのまま生きているのでカント主義の原理主義者として時間を止めれたのでイマヌエル・カントの批判哲学において諸能力は表象の対象と主観への関係の仕方に応じて認識・欲求・感情の能力へと分化すると同時に表象の起源の観点から感性・悟性・理性に分かれるので感性は対象から刺激を受けて直観を得るので悟性は価値判断をせず科学的知識・事実の知識のレベルにあるので感覚によって与えられた直観を概念に基づいて整理する機能を持っているので理性は価値判断をするので悟性は現象界に適応される概念形成の能力なので生きているのを知ることができるのも経験的世界なので悟性は経験を抜きにしては考えられないので思惟はすべて経験的に与えられたものと結びつかなければならないので認識は経験の及ぶ現象界に限られるので経験は独断的合理論と違い単純に退けられるものではないと同時に経験論の経験とも異なっているので経験論において経験は知覚のたんなる経験的複合にすぎないので経験は概念化された知覚の連続的な結合であって知覚以上に及ぶものである経験的判断に普遍妥当性を与えるものなのでア・プリオリに先行する純粋な悟性統一を必要とするのですべての知覚は悟性概念によって包摂されるのでこの概念によって経験に変えられるのなので経験は悟性が感性の材料から作り出したものであるので知的であるので経験はア・プリオリな諸規則に従って比喩作用をもたらす概念であるので経験は悟性によってすでに組織化されているので経験そのものは時間的でもなければ活動でもないので動的組織化を伴っていないのである経験という特殊な経験と言えどもア・プリオリな諸規則に従って一般化されるので経験は悟性による知覚の概念化という形式化の後に現われるので予測可能ですイマヌエル・カントの理論は芸術創作の過程を転倒しているので多くの思想家から批判されているので論より証拠と言うので山下清はカントの提示した過程をそのまま行っているので独創的です
二〇〇五年七月一〇日
He's a real nowhere man
Sitting in his nowhere land
Making all his nowhere plans
for nobody
Doesn't have a point of view
knows not where he's going to
Isn't he a bit like you and me?
Nowhere man please listen
You don't know what you're
missing
Nowhere man, The world is at your
command
He's as blind as he can be
Just sees what he wants to see
Nowhere man, can you see me at
all
Nowhere man don't worry
Take your time, don't hurry
Leave it all till somebody else
Lends you a hand ah, la, la,
la, la
Doesn't have a point of view
knows not where he's going to
Isn't he a bit like you and me?
Nowhere man please listen
You don't know what you're
missing
Nowhere man, The world is at
your command
Ah, la, la, la, la
He's a real nowhere man
Sitting in his nowhere land
Making all his nowhere plans
for nobody
Making all his nowhere plans
for nobody
Making all his nowhere plans
for nobody
(Paul Westerberg “Nowhere Man”)
二〇〇五年七月一一日
ショー・ビジネスが当然のように動いたので山下清の『放浪記』は一九五八年に堀川弘通監督・小林桂樹主演で『裸の大将』として初めて映画化されたので山下清は一九七一年七月一〇日夜に脳出血で突然倒れたので二日後享に年四九歳で亡くなったので式場博士の死後に始めた『東海道五十三次』は未完成に終わったので山下清が生きている間にその役をしなければならないので小林桂樹は「へ、兵隊の位にすると、ど、どれくらいかな」という口調を真似したらそれが暫くの間抜けなくなったのでその中で山下清は玉音放送を聞いて泣き崩れる人々をぼんやりと眺めていたのでいつも通り褌一丁だったので動いた拍子にそれが落ちてしまったので敗戦がどういうことなのかを理解できない子供達がその姿を指差して大笑いするので案ずるよりも言うが安と言うので忘れられていてもこの作品の小林桂樹の演技は後年人々が山下清に抱くイメージ以上に完璧です山下清は前年から始まったテレビ・ドラマが好評だったので一九八一年には山田典吾監督により『裸の大将放浪記』として再度映画化されたのでテレビと同じく芦屋雁之助が山下清を演じたので前回の映画化と違い八幡学園に入園する前からも物語に取り入れたので少年時代の山下清は南沢一郎が演ずることになったので一九八〇年には関西テレビ・フジテレビ系『花王名人劇場』の時間枠で『裸の大将放浪記』がドラマ化されたので芦屋雁之助が半ズボンにランニング姿でリュックを背負った山下清に扮したので一九九六年まで計八二作放映されたので途中から『花王ファミリースペシャル』とその枠のタイトルが変わったので実際の放浪と同じ位長く続いたので百聞は一見にしかずと言うので山下清と言えば芦屋雁之助なので本当の山下清の顔を知らない人は九歳も年下の芦屋雁之助が山下清だと思ってしまうので心配です
野に咲く花のように 風に吹かれて
野に咲く花のように 人をさわやかにして
そんな風に僕たちも 生きてゆけたら素晴らしい
時には暗い人生も トンネル抜ければ夏の海
そんな時こそ野の花の けなげな心を知るのです
野に咲く花のように 雨に打たれて
野に咲く花のように 人を和やかにして
そんな風に僕たちも 生きてゆけたら素晴らしい
時には辛い人生も 雨のち曇りでまた晴れる
そんな時こそ野の花の けなげな心を知るのです
(ダ・カーポ『野に咲く花のように』)
二〇〇五年七月一二日
山下清は時間を止めたので凄いんだな
罪なやつさ ア− パシフィック
碧く燃える海
どうやら俺の負けだぜ
まぶた閉じよう
夏の日の恋なんて
幻と笑いながら
このひとに賭ける
汗をかいたグラスの
冷えたジンより
光る肌の香りが
俺を酔わせる
幻でかまわない
時間よ 止まれ
生命のめまいの中で
幻でかまわない
時間よ 止まれ
生命のめまいの中で
罪なやつさ ア− パシフィック
都会の匂いを
忘れかけたこの俺
ただの男さ
思い出になる恋と
西風が笑うけれど
このひとに賭ける
Mm Stop the
world
Mm Stop the
world
(矢沢永吉『時間よ止まれ』)
「ことしの花火見物はどこへ行こうかな」。
〈了〉